仕事も恋愛も人生の踊り場にいる30代。惑いの世代の揺れ動く心を旬の作家たちが描くアンソロジーを、CLASSY.ONLINE限定で毎週水曜に公開します。第二回は麻布競馬場さんの『独身の女王』。
倉田真季(くらたまき)が電撃結婚したというニュースを知ったのは、日本橋の老舗寝具店のショールームでマットレスに寝転んでいたときだった。仰向けで頭上に掲げたiPhoneの液晶画面を凝視したまま、私は「嘘でしょ」と小さな声で呟いた。
「いかがでしょうか?最新の測定機器とAIが導き出した結果ですから、これが最適な寝心地だと自信を持っております。お客様の人生の質を高める、一生もののお買い物でございます!」
まるで葬儀場のスタッフみたいに地味できちんとしたスーツ姿の中年男性は、私の心ここにあらずといった様子に気付いていないのか、力の入った営業トークを進めている。「一生もの」。左手薬指に指輪のひとつも嵌めておらず、週末にデートをするでもなく、最低でも40万円はするオーダーマットレスを試しにくるような、地味で堅実な顔立ちのミドサー独身女にはその言葉が効くと判断したのだろう。
しかし、今の私はそれどころではなく、食い入るようにニュースの文字を追うのに必死だった。
「お相手は国内最大手の農業機器メーカーの御曹司で、総資産は100億円」「上品な顔立ちの高身長スポーツマン」「知人の紹介で出会い、広尾の超高級マンションと極秘クルーザーデートで愛を深め」……。
それがいかに素晴らしい結婚であるか、ほとんど自慢するような文章を延々と読まされた末に、私が今どうしても読みたくなかった文章が予想通り待ち受けていた。
「美容系インフルエンサーとして活躍する傍ら『独身のカリスマ』としても知られ、彼女が愛用するネックレスが『独身ネックレス』と呼ばれるなど社会現象に」「ネットでは一部ミドサー独身女性から『裏切られた』と恨みの声が早くも上がり、『独身ネックレス』がフリマアプリに大量出品されていると話題に」……。
目線を、頭上のスマホから胸元に落とす。ハイブランドの定番ラインだが、一番人気のパールではなくオニキスの、4つの花弁をモチーフにしたネックレス――世間で言うところの「独身ネックレス」が、そこには慎ましく光っていた。これまでは、眺めるたび勇気を貰えたそのネックレスを、今の私はどんな気持ちで眺めていいものか、分からなくなってしまっていた。
そんな私の内心とは関係なく枕元で延々と続く営業トークは、嫌でも耳に入ってきて、心の触れてほしくない部分にチクチクと突き刺さってくる。
「サイズはいかがいたしましょう? もちろんシングルでもよろしいかとは思いますが、一生ものの買い物ですし、未来のあれこれ、まぁ色んな人生がある時代ですから、あくまでもたとえば、の話にはなりますが、結婚を見越してキングサイズにされる方も……」
***
「それ、まだつけてるんだ。独身ネックレス」
私の胸元を指さしながらそう指摘すると、祐子(ゆうこ)はまったく悪意なんてなさそうな様子でケラケラと笑った。彼女はいつもこんな調子だし、私はそれに慣れ切っていたから、怒るどころか彼女につられて笑ってしまった。
倉田真季が結婚した翌週、私は大学時代のゼミの同期である祐子と表参道のフランス料理店でランチをしていた。三月の半ばの週末だった。せっかく窓際の席に案内されたけど、天気は薄曇りで、このあと少し雨が降るかもしれないらしい。
祐子は婚活の末、マッチングアプリで出会ったベンチャー企業勤務の年下男性と結婚していた。去年の春には第一子が生まれ、以前のように飲みに行くことは難しくなったものの、こうして週末の昼間にランチ会をすることが増えていた。
「いやぁ~ビックリしたね、倉田真季の結婚!ショックで寝込んでるか、怒り狂ってるかのどっちかだと思ってた。それでどうするの、新しい『教祖様』でも探すの?それとも諦めて、婚活スタートするの?」
昼間からつい頼んでしまったシャンパンを派手に呷りながら、祐子がさもおかしそうに言う。私と違って「信者」ではないはずの祐子までもがその深刻さを把握しているほど、「教祖様」の結婚は大きな話題になっていた。
倉田真季は、いわゆる美容系インフルエンサーだ。年齢は、私と同じ35歳。私が慶應義塾大学を卒業後、人材系最大手の会社に入って堅実に社会人生活を送っている一方、彼女は関西のお嬢様私大を卒業後、キー局アナウンサー試験の狭き門を突破し、朝の情報番組を担当するなどそれなりに活躍していた。退社してフリーになったかと思うと、最初のうちはYouTubeを中心に活動しながらコスメの紹介やプロデュースなんかを手掛けていたが、そのうち恋愛のご意見番として不動の地位を確立し、雑誌やウェブメディアだけではなく再びテレビにも出るようになるという、いわば現代における女性タレントの成功パターンを完全になぞっていた。
「結婚しろ結婚しろとうるさい人は、結婚にしか人生の意味を見出せなかった寂しい人」
「男の機嫌を取るより、肌の機嫌を取ることを優先する人生が令和にはあってもいい」
テレビの中で、倉田真季が美しい顔を美しく保ったままそんなセリフを言うたび、なぜか共演者たちは声を上げて笑ったり、黙って苦笑したりする。彼女はあちこちの恋愛バラエティー番組の中で「独身のカリスマ」と呼ばれていた。その呼称には、出演者のモデルやお笑い芸人たちというよりも、「普通の人々」が彼女に向ける冷たい目線が反映されている気がした。
そう感じるたび、私は倉田真季が彼らに負けないようにと、心の中で大声援を送ってしまう。彼女が気高い孤独を維持しているのを見ると、私が結婚していないことは人生の欠損なんかではなく、自ら選び取った美しい曲線なのだと信じることができた。私が彼女に送っていた声なき声援は、きっと倉田真季だけではなく、私自身に送られたものでもあったのだろう。例の「独身ネックレス」の購入だって、その応援活動の一環だったのだろう。
私はシャンパングラスを置くと、空いた右手で胸元の黒い花弁のモチーフに触れる。このネックレスの処遇については正直かなり悩んだし、「独身ネックレス」という言葉は、倉田真季の結婚によって以前よりも強い揶揄の対象になっていた。でも、私はどういうわけか、このネックレスを手放すことができず、それどころか今日も、無意識のうちに手に取り、身につけていた。
vol.2に続く
イラスト/日菜乃 編集/前田章子
麻布競馬場(あざぶけいばじょう)
1991年生まれ。会社員。覆面作家として投稿したX(旧Twitter)の小説が話題に。2022年9月に自らの投稿をまとめた短編集『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』で小説家デビュー。Amazonの文芸作品の売上ランキングで1位を取得する。2024年『令和元年の人生ゲーム』で第171回直木三十五賞候補に初ノミネート。